タンロン城遺跡についての記事

Wednesday - 18/05/2016 20:38
タンロン遺跡 (越:Di tích Hoàng Thành Thăng Long/遺跡皇城昇龍)は、2003年からベトナムの首都、ハノイで発掘された遺跡群。タンロン(昇龍)はハノイの旧称。

ハノイ城・タンロン城遺跡

2010年、ハノイ市ドンダー区、ホアンジエウ通りの東側のハノイ城と、西側のタンロン城遺跡を合わせた区域が、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。ハノイ城は当時のまま残されている門などがあり、タンロン城は、建物の遺構や建築遺物などが発掘されています。

 タンロン城
1010年、ベトナム最初の長期王朝リー(李)朝の初代皇帝リー・タイトー(李太祖)は、都をタンロン(昇龍)(現在のハノイ)に定めました。唐(中国)の高駢が9世紀末に築いた城壁(大羅城)の土台を基礎としてタンロン城は築かれ、 その後歴代王朝により何度も再建されていきました。しかしグエン(阮)朝時代(1802~1945)を迎えると、1802年、初代ザーロン帝は都をタンロンからフエに移しました。遷都するにあたって、重要な建築物は分解されて運ばれ、フエで再度組み立てられたのです。

 

 ハノイ城
グエン朝期、タンロンはハノイ(河内)と改名、ハノイは一地方都市として扱われ、1804年から1805年にかけて規模が縮小されたハノイ城が建てられました。四代皇帝トゥ・ドゥック帝は、更にその一部を壊し縮小したといいます。そして1884~86年には、フランス植民地政府によって、部分的に破壊されてしまったのです。  フランス軍が1954年に撤退した後、1975年まではベトナム人民軍の最高司令部がハノイ城に置かれ、2004年にハノイ市に受け渡されるまで国防省の管理下にありました。1999年より建物の修復が行われ、2000年の遷都990年を記念して一部(端門、後楼、北門)の公開が始まり、その十年後2010年には遷都千年にあわせて残りの部分(敬天殿跡、D67の家)も一般公開が開始されました。 


                                   ハノイ城・タンロン城遺跡とその周辺

タンロン城遺跡について、ミンシン会社のツアーを参考していただきます。

01. ハノイ城-端 門

 
 端門。五つの入り口が設けられている。
撮影:2011年12月13日

ハノイ城は三重の構造になっていました。一番内側が皇帝が住む宮城、二層目は政治を司る皇城、一番外側は商区や庶民の生活圏で京城と呼ばれていました。

皇帝一族の住居があった宮城の南側に、ただ一つ開かれたのがこの端門です。元々後レー朝前期の15世紀に建てられ、グエン朝時代に補修されました。端門には五つの出入り口があり、その両脇には更に、楼閣へ上るための階段があります。中央の一番大きな入り口は皇帝用です、五つの出入り口のどこから入っても、必ず中央の検問を通らなければならない仕組みになっています。皇帝のいる敬天殿へと通じるため、ここを通過する人が厳しい検査を受けたのです。後レー(黎)朝の法典『黎朝刑律』には「針1本でも持ち出したものは、斬首に処す」と記されています。現在この場所には、発掘現場が見学用に保存されています。下に見える敷石は敬天殿へと続く道の一部であったのでしょう。両端(黄色い壁)の入り口から上っていくと、更に最上部へ続く階段があり、ガラス戸をスライドさせて上がることができます。南側にフラッグタワーが見え、北門から後楼、敬天殿、端門と城内の主要な建物が南北に、まさに一直線上に並んでいたのが実感されます。

 
 内側(北側)から見た端門
撮影:2011年10月12日

0.2 ハノイ城ー敬天殿跡

 
 敬天殿跡。手前が龍の階段。
撮影:2014年3月18日

 現在残されているのは龍の階段のみで、階段の上の高くなっているところに、かつて敬天殿と呼ばれる宮殿がありました。現在ある建物は、フランス植民地時代にフランスが建てた建物です。敬天殿は1428年にレー・タイトーによって、李朝や陳朝期の宮殿の基礎の上に建てられました。皇帝とその家族の生活の場所で、謁見や儀式なども執り行われました。

龍の階段は、後レー朝期最も栄えたレー・タイントン皇帝の時代、1467年に造られました。四匹の龍が残されていますが、中央の二匹は5.3mの長さで、体に7つの屈曲があり 5本の爪が見られます。両端の二匹は雲の模様にデザイン化されています。

階段を上がって、向かって左側の奥に、もう一つ龍の階段があります。正面のものより小さく3.4mの長さで、龍の形は異なり、その下側には蓮の花や鯉が龍に変化するモチーフが描かれています。こちらは17世紀終わりか、18世紀初めに造られました。ここが小高い丘のようになっていたことがよくわかります。

 
 龍の階段(後黎朝期)
撮影:2006年8月24日
 
 もう一つの龍の階段(17世紀末~18世紀初め)
撮影:2011年12月21日

03. ハノイ城 - D67の家と地下室

 撮影:2011年12月13日

<地上会議室>

1967年から2004年4月までベトナム共産党の政治部中央軍事委員会は、抗米戦争の戦略に関する決定を含む重要な会議をここで開催しました。特に1974年12月18日から1975年1月8日まで、南部解放に関する議決を行い、1975年のベトナム全土統一を導きました。建物中央に会議室があり、テーブルの上には、ヴォーグエンザップ将軍やレーズアン書記長などのネームプレートが置かれ、当時の会議の様子がよみがえってくるようです。壁には当時の戦略地図が貼られています。会議室の左右には三つの部屋があり、一つはヴォーグエンザップ将軍の部屋です。

 

地上会議室。手前はレーズアン氏のネームプレート 。当時の戦略地図
撮影:2011年12月13日 

<地下室>

D67 の建物の入り口の前、左右から地下に下りる階段があります。地下には会議室と、機材などが置かれた小さい部屋の二つがあります。ハノイ城がベトナム軍の所有になってから、当時のソ連の援助で作られました。扉は鉄製で、地下室は原爆にも耐えられると言われています。地下室からさらに地下道が伸びていて、ハドンまで続いているとのことです。地下道の入り口をのぞくと、抗米戦のさなかの緊張感が伝わってきます。


 地下室への階段地下室入り口の扉 
地下室(正面奥はホーチミンの写真)
撮影:2011年12月13日  

04. ハノイ城 - 後 楼

撮影:2011年12月13日 

 南から見ると、敬天殿の後ろ(北側)に位置するため、後楼と呼ばれます。 ここは、19世紀グエン(阮)朝時代、皇帝が都のフエからハノイを訪れ敬天殿に宿泊した時、随行してきた側室や女官達が皇帝のお世話をするために控える場所とされていました。 建物は三階建てで、屋根には龍の頭の装飾があります。19世紀末フランスがハノイ城を占領した時、フランスによって破壊されてしまいましたが、再びフランスによって建て直されました。

1998年から99年にかけて発掘調査が行われ、リー朝、チャン朝、後レー朝の時代の建築資材や食器など多くの遺物が発見されました。そのうち、柱の礎石が後楼の前に展示されています。この楼閣は後レー朝時代からあったとされていますが、数百年さかのぼって、リー朝期も城の位置はこの辺りであったことが、これらの発掘品からも証明されたわけです。

 撮影:2011年10月12日

1998年に地下3.5mの深さから発掘された礎石。蓮の花びらの彫刻は、仏教が盛んだったリー朝 時代特有の模様。

後楼の目の前にある”卵の木( Cây Trứng Gà)”。秋から冬にかけて実がなり、
色が綺麗なため、テトの時にお供えに使われる。
撮影:2011年12月13日

05. ハノイ城 - 北門

撮影:2014年3月18日 

  この門は、旧ハノイ城の皇城※を囲む城壁に造られた五つの門のうちの一つで、現在残っている唯一のものです。城壁は高さ4.4m、16mの厚みがあります。1805年、グエン(阮)朝初代ザーロン帝によってフランス人技術者の援助を得て造られました。 幅15~16m、深さ5mの堀を渡り、「正北門」と書かれたこの門をくぐると、中にはいろいろな建物がありました。政治・経済を司る役所、軍の駐屯所、フラッグタワー、象舎(象は乗り物として使われていました。)、そして監獄・・・中央には、これらに囲まれる形でもう一つ城壁があり、その中に宮城(皇帝の生活の場)がありました。 
 

 
 砲弾の跡
撮影:2014年3月18日


北門には、1882年4月25日フランス軍が、紅河から砲艦によって城を攻撃したときの砲弾の跡が残っています。発掘調査によって、地下60㎝ のところからグエン朝時代の土台と共に、この時の犠牲者と見られる一体の人骨が見つかりました。

 門に向かって左側の入り口から入場料を払って入ります。門の内側を見学してから、見学者用の階段を上がると、上にはフランスのハノイ城侵攻に抵抗したホアン・ジエウとグエン・チ・フオンの像が安置されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 向かって左:グエン・チー・フオン
右:ホアン・ジエウ
撮影:2006年8月24日

※かつての皇城は現在のファンディ