バッチャンが、最初にベトナムの歴史に顔を出したのは1352年。バッチャン村の脇を流れる紅河でおきた氾濫で、周辺の村一帯での農作物等の被害報告の中に、‘Bat Commune’として、バッチャン村は登場している。(by "Dai Viet su ky toan thu")
15世紀に入ると、バッチャンは“Bat Trang”の名で、陶器の村として記録にのこっている。バッチャンは、中国・明朝への貢ぎ物のお碗を作る村として、同じく明への献上物・黒布を作っていた Hue Can 村とともにその名を残している。<Nguyen Trai “Du dia chi(1435)”>
バッチャンが繁栄したのは李朝(1428~1527)、マック朝(1527~1592)の時代。マック朝下で実施された、商業抑制政策の廃止政策が、ベトナムに商業の活発化をもたらした頃である。
当時のバッチャンは、大衆向けの陶器から、貴族階級の為の高級品まで幅広い商品を供給していた。
既に芸術パトロンが一般化していた当時、王妃などのパトロンの名前と作品を作った陶工の名前が刻まれた陶磁器が数多く確認されている。女性の名が刻まれたものもあり、女性の陶工が既に存在していたこともわかっている。
この時代は海外との海上貿易がさかんになった時代でもある。15~17世紀のバッチャンとハイフォンは、ベトナム貿易陶磁の北部における生産拠点であった。二大商業地であり海外への玄関口でもある Thang Long と Pho Hien 、二つの町の間を流れる紅河沿いに位置していたバッチャンは、地理的な運にも恵まれていたわけだ。
こうして繁栄を極めたバッチャンとベトナム陶磁であったが、17世紀にはいると、その繁栄に陰りが見え始める。 1684年に清が台湾を奪回し、渡航禁止条例を撤廃したのをうけて、良質の中国産陶器が海外に大量に流出し始める。完成度の高い中国陶磁器に、ベトナム陶磁器は太刀打ちできない。 さらに、そこへ日本の鎖国政策も影響する。もともと日本国内の産物(銀・銅など)を保護する為の政策であったが、やがて、それまで東南アジアからの輸入に頼っていた絹・砂糖・陶磁器などの国内での生産力が高まるかたちとなり、それらの物を輸入する必要性薄れていく。
ヨーロッパでは工業革命により、新たな消耗品の需要が高まっていた。にもかかわらず、ちょうどその時期、ベトナム・グエン朝は、貿易の抑制政策をとった。このような歴史の流れが、ベトナム貿易陶磁を衰退へと追い込んでいった。
ベトナム国内で、陶磁窯が1つ、また1つと姿を消していく。しかしながら、バッチャンは、歴史の流れの影響を少なからずうけつつも、大きな国内需要に支えられて存続する。そして、ベトナム陶磁生産拠点として現代まで君臨しているのだ。
バッチャン村について、ミンシン会社のツアーを参考していただきます。
geocities.co.jp/SilkRoad
記事作者: Minh Sinh sưu tầm
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